岩屋古墳 |
西暦6世紀頃のものと思われ、周辺では縄文や弥生時代の土器も出土。いにしえより人々の生活の舞台となっていたことをしのばせます。 |
|
|
|
倭武命(やまとたけるのみこと)がこの地を訪れた際に井戸を掘らせたところ、とても清らかな水が湧き出し、「よくたまれる水かな」とたたえられたことから「田餘(たまり)」と呼ぶようになったとされています。旧玉里村に伝わる言葉で「六井・六畑・八館・八艘」は、村内に点在する史跡の総称であり。それぞれ古井戸(六井)、畑(六畑)、古城跡(八館)、前方後円墳(八艘)を指しています。 |
なかでも、前方後円墳を八艘と呼ぶのは、形が船の形に似ているからであり、江戸時代の文献では船塚と呼称されています。水が豊富で肥えた土地が多く、城跡や古墳が密集する玉里の地の特徴をよく表している言葉です。 |
|
|